2010年05月19日(水)

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:2


人は救われる時には、一方的な恵みによって救われた。何の行ないも無かった。その恵みはよく理解できるのだが、救われた後、しばしば恵みプラス行ないで生きてしまう。今まで生きて来た価値観が根深く培われているためだ。

この世の価値観は、自分の力がすべてであり、自分の努力で勝ち取るものだ。自分を信じて、いかにうまく生きて行くか、自分以外のものを頼るな、自分の力で頑張れが、この世の教育だ。それゆえ、救われた途端、自分の力で頑張ってしまう。熱心な祈りという行ないや、犠牲的な献げ物によって、神は受け入れ、愛して下さると思ってしまう。

自分の願いが叶えられるためには、もっと頑張って祈らねば、もっと信じなければと、そこに自分の力が出て来て、段々苦しくなる。信仰生活が辛くなっていたら要注意だ。救いは一方的無代価だが、その後の祝福は、恵みでなく行ないになっていないだろうか。

しばしば陥ってしまう。神の愛顧を得るために、神に受け入れて貰うために、何かをするなら、それは律法であり、恵みから落ちている事になる。神に完全に愛されているから、完全に受け入れられているから、感謝が溢れて、自発的自由意志で献げたいと思うのが福音だ。そして自力でなく、全面的に神に頼って生きて行く歩みだ。
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クリスチャンなら神様に喜ばれることをしたいと思う。しかしその思いすら神様からの賜物だ。自らの持っている物の全てをかき集めて頑張ってもその報酬を求めるための行為なら間違っている。