2010年07月19日(月)

『サムエルは・・何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」』Tサムエル3:18


祭司エリの息子たちは、よこしまな者で、人が献げるいけにえを、肉刺しで取り上げ、自分のものとしていた。人々が脂肪を焼いて煙にして、取るようにと言うと、今渡さなければ、力づくで奪い取ると。

献げ物を侮り、主の前に大きな罪を犯していた。息子達は父エリの言葉も聞く耳が無かった。傍若無人。やがて主はサムエルに、息子たちの裁きを告げられた。
エリはサムエルにそれを話すように告げた。サムエルからすべての事を聞いた時、エリはその裁きを受け入れた。何の言い訳も弁解も無かった。

妻のせいにし、子供のせいにし、責任転嫁して、自分を正当化する事もしなかった。主からのものと受け取り、へりくだって、主に従おうとしている姿を見る。
子育てに失敗はしたが、信仰の人であった。それゆえ、主はエリにサムエルの養育を委ねられた。エリのその信仰が用いられた。

主の大きなあわれみであった。アブラハムもイサクもヤコブも、モーセもダビデも失敗した。人は弱さのゆえに失敗してしまう。しかし、失敗を通して、へりくだらされる。高慢が砕かれる。

いっぱし、一人前と思っていた自分が、どんなに無力で惨めな者かを思い知らされる。しかし、主はそんな砕かれた器をこそ、ふさわしいと用いられる。主の憐れみは尽きない。大きな恵みだ。
-----------
失敗を通し自分の弱さ、醜さ、罪の深さをはっきりと認めて行くから、神様の赦し、また助けなしに一人で歩めない事を思い知れる。失敗を受け止め、無力ゆえに主を認め、頼る人生へと変えられるなら失敗は益となる。