2012年03月19日(月)

「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」ルカ10:42


こんな記事があった。「私たちは聖書を読み、祈らなければと思う。しかし、今はその気分ではない。気分が乗らない時にするのは律法的だ、その気になったらしようと先延ばしにする。朝の時間は、すぐ過ぎる。次から次となすべき事が山積みだ。時間がある時にと思っていると、あっという間に昼だ。雑用、会うべき人々、次々起こる事態の対処、もう夕刻になり、夜は、ダラダラと見てしまうテレビ番組、今日も聖書を読む時間が無かった・・。

本当は時間があるのだ。どうしても必要な事はただ一つであり、次善の山のような物事に忙殺される。本末転倒になり、たましいがやせ衰えてしまう。ある人は仕事に追われ、時間が無いから、静まる時間が持てないと思っていた。時間さえあれば、ああ時間が欲しいと。そんなある時、突然の休暇が入った。しかし大喜びで遊びに、弾け、全く主との交わりを持たなかった。

その時、時間の問題でなく、自分自身の問題だと気づかされた。主との交わりを選ばない自分、その事を認めて、御前に出た時に、幸いな交わりの時が与えられた。なかなかデボーションが持てない時、選ぼうとしていない自分がいるかも知れない。自分を責めるのではなく、自分自身の姿を正直に認めて行く時、主が働かれ、上から与えられる。
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主との交わりは、意志を向けて守っていかなければすぐに奪われて行く。忙しい日も、いつでも時間がとれると思う朝も同じだ。主の前に静まり御霊の導きを受けるための時間を取ろう。