2012年06月18日(月)

「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」使徒13:52

この世の幸せの価値観は、自分の思い通りになること、自分の欲望が遂げられること、自分のしたいように生きることだ。それが幸せだ。信仰の歩みを始めても、その価値観が根深くあるので、自分の願いが叶うこと、自分の思い通りになることが喜びで、充足感が得られると勘違いする。そのため、自分の欲望を満たすことを追い求める。

しかし、決してそうではない。心の喜び、平安はそこからは来ない。そこには無い。貪欲とは、底の無い欲望だ。これで十分ということがない。貪欲は更に貪欲を生み、とどまるところを知らない。金持ちが幾ら富を持っても決して満足しないように、欲望は満たせば満たすほど、更に渇く。生きがいを求めて次々と駆け巡る人を見るだろう。

自分を喜ばせ、自分の欲望を充足して行く人生はますます渇くばかりだ。真の喜び、御霊の喜びや平安を得ることがない。問題は「自分中心」にあるからだ。人は、誰しも喉から手が出るほど「喜び」「心の満足」が欲しい。もし喜びが欲しいなら、自分を喜ばせる事を止め、神が喜ばれる事を求める事だ。

「神中心」「神第一」にする時に、喜びが心に湧き上がる。喜びは御霊の実だ。御霊の実は、御霊に自分を明け渡して、従って行く時に与えられる実だ。自分で得るのではなく、神に従う時に与えられるものだ。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安・・」。
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自分を喜ばせようとしてなお渇き続ける。虚しい努力には何の実もない。神から与えられる満足に心を向けてみよう。御霊の促しに明け渡して行くところには、神から与えられる喜びと実りの豊かさがある。