2012年08月19日(日)

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエス はすべての人を知っておられたからであり」ヨハネ2:24


多くの人々が主を求めて、主を追い回しているのは、主ご自身を求めではなかっ
た。「パンを食べて満腹した」の通りに、主がされる奇跡を求めて、自分の願望
を満たしてもらうために、後をついていた。ただ、自分の欲望が満たされたいが
ためだった。

私たちの信仰が、自分が中心に回るなら、自分の願いが満たされている間は、主
につき従う。つまり、自分の思いと合致している間は良いが、思い通りにならな
い途端、離れ去る。従う意味がないからだ。群衆がそうであり、ユダがそうだっ
た。

ユダは、主がローマ帝国を倒して、主の王国を築くと思い込んでいた。それが主
は十字架へと向かわれ、自分の思いと違うとわかった時に、主を見限った。私た
ちは、何のために、主に従っているのだろう。パンのため、自分の利益のためだ
ろうか。それなら、自分に不利益になった途端、従うことをやめる。

軸が自分なので、自分に損か得かで動く。損になるのに、何のための信仰かとい
う事になる。主は信頼に足る信仰を探しておられ、信頼できる信仰に、ご自分を
任せようとしておられる。

つまり、主を自分の得のために利用するのでなく、主が神であるゆえに、どうれ
あろうと従って行こうとしている人に、ご自身を現される。その人は、どんなに
自分に損失になろうと、試練の中も、苦しい中も主に従って行く。何があっても、
どんな時も、従って行く。

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どこまでも自分軸で、自分に益か不利益か、得か損かで、御心も量ってしまう。
それなら一生、主との深い喜び溢れる交わりや、大海のような平安、安堵を経験
する事がない。「自分中心です。損得です」から祈り始める時、主と真に触れて
行く。御霊が導いて下さる。