2013年04月18日(木)

「こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです」ガラテヤ4:31 


アブラハムとサラは、神から子供を与えるとの約束を受けていた。が、長い間、何の兆候も無く、それでサラは、奴隷ハガルにより子供を持つよう、夫に提案した。アブラハムはそれを受け入れ、奴隷ハガルとの間にイシマエルが生まれた。そのイシマエルが後に与えられたイサクをからかっていた。それを見たサラはその子を追い出すよう夫に迫った。

アブラハムはイシマエルも自分の子であり、非常に悩んだが、主により奴隷の女とその子どもを追い出すよう示された。奴隷の女の子どもは、相続人になってはいけないと。すでに主がはっきりと言われていた。奴隷が跡を継いではならない、あなた自身から生まれて来る者が跡を継がねばならないと。奴隷でなく、子供が跡を継ぐ。

あなたの信仰生活は決して奴隷なのではない。神の子供であって、自由の女の子だと。イシマエルは肉を表わし、奴隷には自由が全く無いように、すべてが「ねばならない」の世界だ。善行が必要で、良い行ないによって、天国を勝ち取り、神の愛顧を勝ち取る。私たちはどうだろう。

聖書を読まねばならない、礼拝出席せねばならない、人を愛さねばならない・・自由の無い奴隷であり、しんどい窮屈な信仰生活だろうか。私たちは約束の子であり、自由と恵みの中にいる。主の十字架ゆえに、愛されて嬉しいから、愛する方の御声を聞きたくて聖書を読む。そして礼拝する。もし、そう出来なかった時も、神の愛は全く変わらずに、受け入れられ、愛されている。だからこそ、心からの安心を持って主に近づける。
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まず神様が私達を愛して下さり私たちがどうであれ恵んで下さっている。ああしなければ、こうしなければと思うとき、そこに立ち返ろう。自分発の愛と感謝で神様に向かっていよう。