2013年06月17日(月)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:19 


主は、罪を犯したアダムに、悔い改めの機会を与えようとされた。が、アダムは罪を認めず、エバのせいにし、更にそのエバを与えた神が悪いとした。私たちも同じ事をしてしまう。目の前に、どうも相性の合わない相手がいるだろうか。うまく対応できずに、イライラしたり、思い煩ったり、落ち込んだりする。そんな時に、相手の態度が悪いから、自分は心を乱されると思い、どうしても相手のせいにしてしまう。

相手のせいで、自分は不愉快なので、自分の平安を奪う相手を、更に嫌い、裁く。しかし、相手が悪いとするなら、堂々巡りで、平安も喜びも無く、何も変わらない。心の辛さが全く変わらないので、段々、「もしかして、自分への訓練では?」と思い始める。そこから変化が出て来る。相手でなく、状況でなく、「私」を変えて下さい、教えようとしておられる事を、学ばせて下さいと祈って行くと、次の展開があり、導かれて行く。

主は、自分自身の頑なな心を砕こうと思っておられる。そのために、あえてうまく行かない状況や、相性の悪い相手を目の前に置かれる。でなければ、自分自身は決して変わることがない。ずっと環境や相手のせいにして、相手を責めて行くばかりだ。状況や相手が変わるように祈りたいところだが、まず、目の前の事態を受け入れられるよう祈ろう。そして、自分が変えられるよう祈るなら、まず心が変えられ平安を経験する。
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受け入れがたい人や環境だけが悪いのだろうか。自分がこの事態を通して、主と共に御心に立って行けるよう祈ってみよう。自我が示されるなら自分が変わる方を選びたい。