2013年08月19日(月)

「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく・・真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」コロサイ3:22 

  
私たちが周囲に心遣いし、人々に仕える事は、主に喜ばれることだ。しかし、人々に仕える時、心の底はどうだろう。報いを求め、見返りを求めるだろうか。相手に親切な行ないをして、感謝が全く無かったなら、心の内はどうだろう。心騒ぐだろうか。「なんと非常識な」、「どういう人なのか」腹立ちか、こんなはずでは無い思いが出て来るだろうか。その時の動機は何だろう。

又、人に仕える時、仕事をする時、何かをする時に、「ねばならない」の義務感で、又、嫌々していると、必ず疲れて来る。心がしんどくてたまらなくなる。経験あるだろうか。油の切れた機械のように、疲れ果てて、続けて行くことが出来なくなる。その事は一体誰のためにしているのだろう。

ある人が、クリスチャンと一緒にバイトをした。すべて下働きで、重い荷を倉庫から運び、掃除をした。その人はそこまでしなくてもというほど丁寧に一生懸命に働く。それを見て、自分は一体何のために、誰のために働いているのかと心探られた。主のために働く時、どんなに小さな仕事にも、どんなに退屈な仕事にも、光が与えられる。

主のために、主に喜ばれるためにするなら、そこには喜びがある。自分の現状を、ありのままの姿を主に告げて、主に対して心からできるよう祈ろう。御霊が助けて下さり、御霊によってそのように出来る。
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人に仕える心遣いの動機がいつも人の気持ちが対象になってしまう。主に対してするように、を覚えるなら誰も通らない道の掃除ひとつにも、今日この道を主が通られるならと心がこもる。