2013年10月18日(金)

「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」エレミヤ2:13



イスラエルの行なった二つの悪とは、湧き水の泉である神を捨てた事と、水をためることのできない、多くの壊れた水ためを掘ったことだった。神が「湧き水の泉」であり、神以外のものを、「こわれた水ため」と言っている。泉と水ためは、大きな違いがある。

泉は、それ自体が源泉なので、絶えず水が湧き出て、無くなる事が決してない。ところが、水ためは、人の手で作られた貯水槽で、雨水を溜めたり、付近の水源から水を引いて来る。溜めた水は無くなってしまう。私たちは神をないがしろにし、「多くの水ためを」掘り、様々な神以外のものを求める。それによって、心を満たそうとするが、それは「こわれた水ため」だ。

水は流れ出てしまい、心満たされる事は無い。私たちが「湧き水の泉である神を捨てて」しまうところから来る。人は、自分の力で渇きを満たそうと、神以外の水ためを自分のために掘る。しかし、どこにも湧き水は出て来ない。堀り方が足らないのではと、場所を変えれば良いのではと、更に頑張って掘るが、決して湧き水は無い。心を満たすものは無い。

ある人が、自分の壊れた水ためは何かと、心探り考えた。信仰者ながら、金銭であり、安定した生活だと気づかされた。いつしか気づかない内に、神ではなく、金銭に依存していることを示され、神の国のために生きて行きたいと、方向変換できた。私たちも「こわれた水ため」を掘っていないだろうか。
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こわれた水ためが干からびて初めて、永遠に湧き出る神様の泉に気がつく。渇きは感謝だ。神様がすべての源であり他にはない。真の心の渇きが満たされ、疲れを癒して下さる。