2013年11月18日(月)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3



ある人が、どうしても愛せない人がいた。嫌で、憎しみをどうする事もできなかった。しかし、憎しみには、とがめを感じ、罪責感があり、罪意識にさいなまれた。その罪意識から逃れたいがために、逆に、相手に親切にしようと頑張った。憎しみを隠し、ふたをし、罪責感から逃れたくて必死だった。何とか、礼儀正しく接し、愛の行為をしようと頑張った。

しかし、相手に良い行いをしようとすればするほど、心は、いら立ちと憎悪でいっぱいで、どうにもならなかった。相手の悪口が言われている場所では、口では言わないが、しっかり心で同意して発散させるのであった。そして、溜まったストレスにより、陰では悪口を言ってしまうのであった。愛からは、ほど遠い結果となって行った。

この間違いは、行ないによって罪責感を無くそうとした事だ。良い行ないによって自分を救おうとする。憎悪、敵対心、憎しみを認めないで、それを暗闇に封じ込め、隠し、無い事にしてしまう。そうではなく、憎しみの感情を光のもとに出し、自分がそういう者であると認める事だ。その時、それはすでに光の中だ。あるがままを認め、告白する時、必ず変えられて行く。大切なのは、良い行ないでなく、罪を認め、告白し、悔い改める事だ。その時、新しく新しくされ、主が働かれる。自分が変えられ自由にされて行く。
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自分の罪を主に認め悔い改めるときに、心が変えられる。行いの前に罪を赦された御霊による喜びがくる。ガチガチの心が自由にされれるとその後の御霊の示しも素直に見えるのではないだろうか。