2013年12月19日(木)

「あなたがたのうちから、その聖絶のものを、一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない」ヨシュア7:12 




アイへの偵察隊が「彼らは僅かなので、二、三千人で大丈夫」と戻って来た。そこで三千人を戦いに出したが、さんざんな敗北だった。想定外の事実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利を信じて疑わなかっただけに、大変なショックであり動揺であった。奇跡のヨルダン渡渉、エリコ城壁崩壊の大勝利を目の当たりにし、大いなる神が共におられる、その事がヨシュアの拠って立つところだった。

敗北の事実そのものが、それらをなし崩しにしてしまう。主の御名はどうなるのか。敵の前で、この敗北はどうなるのか。ヨシュアは「なぜですか」とひれ伏し祈った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかし「大いなる御名」こそがこの敗北
を与えられた。

全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、聖さのゆえに、罪のあるところに働かれない。聖く無い所では、敗北の方が、神の栄光が現れる。妨げは神の側ではなく、民の側にあった。神との関係が正しければ、アイでも勝利していた。

神は罪を示され、アカンの罪が発覚した。罪が取り除かれた時、再びアイに上り、神は完全勝利を与えられた。罪は神との仕切りとなり、平安を失う。私たちにはどんな時にも、主の流された血潮がある。今すぐ主のもとへ行き告白しよう。主は完全な赦しを与えて下さり、心に平安が戻り、罪赦された喜びが溢れる。
---------
聖い神様の御前に出るためには、罪を持ったままで行けない。けれど聖い神様が完全に赦して下さるのだから、罪に鈍感であったり、罪を認めたがらない自分を悔い改め、いつも主の前に平安にいたい。