2014年06月18日(水)

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Uテモテ4:3


ある人が牧師に、悩み事の相談に行った。牧師は、御言葉にそって、
真っ直ぐに話したところ、その後、その人は行かなくなった。その
人は、主に従いたくて、アドバイスを求めて来たのではなく、自分
のする事に同意し、承認して欲しかった。自分に都合の良い事を言
って欲しかった。

そのような人々は、自分の事を思い、自分を正しい方向へと導こう
としてくれる人々から遠ざかる。後の時代になると、人々は自分に
都合の良い、自分が聞きたい話だけを聞くようになると、言われて
いるが、自分自身はどうだろう。

ある男性は、奥さんから間違いを指摘されて、全くもってその通り
で、しかしその事を悔い改めるのに、3日かかったと。まずは認め
られず、心の中で言い訳、弁解に終始する。幾らでも言い訳が出て
来る。どこまでも自分を正当化しようとする。自分は悪くないと思
おうとする。

間違いが頭ではわかるが、自我がどうにもならない。悶々状態のあ
げく、主の御前に祈り、正直に心にあるものを告げて行った時に、
御霊から罪を指し示され、心砕かれて、悔い改めることができた。
悶々の心に平安が来て、解決が来た。

主が正しく導こうとされる時、矯正される時、逃げることも、受け
入れずに否定することもできる。肉は痛いので、そうしたい。しか
し、逃げずに、主に向く時正され、成長して行ける。主に向くこと
が大切だ。
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都合の良い励ましや慰めは一時的な平安を与えてくれるが、それに
よって変わることも成長することもない。主にある導きは、痛みを
伴っても愛と励ましがある。現実の自分を回避せず見ていこう。