2014年11月18日(火) 「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2
謙遜とは、人の前に腰を低くすることではない。腰は低いが、心は 幾らでも高慢であり得る。謙遜とは、「へりくだって心砕かれ、わ たしのことばにおののく者だ」。主の言葉をそのまま額面通りに受 け取る事であり、高慢とは御言葉を受け入れない事だ。それどころ か御言葉を否定する。 神があなたを愛していると言われても、いいえ、私みたいな者が愛 されるはずがないと、御言葉を受け入れずに否定してしまう。あた の罪は全面的に赦されたと聞いても、そんな事はない、赦された気 がしないと、信じない。御言葉ではなく、自分の気持ちや感情、自 分の思いのほうを信じている。 「思い煩うな」「目の前の事態を導く」「すべての必要を満たす」 と言われても、そんな事あり得ないと、信じずに、思い煩い続ける。 そのため恐れと不安の暗闇にいる。神とその言葉を信じないことは 高慢だ。それは神を認めず、自分を神の上に置くことになる。 又、優越感は人を上から見下すので、見るからに高慢だと思えるが、 劣等感も同じで、高慢だ。神の評価、神の見方を受け入れないで、 人と比較して、自分が自分の評価を定めている。 神の言葉をどう聞いているだろう。納得の行くもの、又、都合の良 いものは受け入れ、そうでなければ流してしまう。へりくだりとは、 神の言葉を、神からのものと受け入れることだ。そのまま受け取れ ないなら、まずそのまま主に告げよう。主は助けて下さる。 ----------- どのような御言葉もに主なる神を認めて、従おうとすればすぐに出 来ない自分に気づく。ひとつの御言葉にも従いきれない自分中心の 高慢さに気づけたら、なおも愛してくださる主に感謝し悔い改めて また従っていこう。