2016年07月19日(火)

「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた・・彼が見つめていると・・はっきり見えるようになった」マルコ8:25 



人々が盲人を連れて来て、主に癒しを願った。主は盲人の両眼につ
ばをつけ、両手を彼に当てられた。「何が見えるか」と問われると、
彼は「人が見える、木のようだが、歩いているのが見える」と言っ
た。見えるのだが、はっきりとは見えず、人が木のようにぼんやり
としていた。

見えるようになりつつあるが、まだ十分でなく、鮮明ではなかった。
そこで、主がもう一度両手を彼の両眼に当てられた。そして彼が見
つめていると、すっかり直り、すべてのものが見えるようになった。
主に直接触れられた時に、見えるようになり、彼が「見つめて」い
た時に、「はっきり」見えるようになった。私たちはどうだろう。

主を見つめているだろうか。じっと見ているだろうか。余りに多忙
で、じっと見る余裕など皆無だろうか。いつも主が何だかぼんやり
しているのは、そのためだろうか。デボーションも、ささっと済ま
せ、気持ちがすでにここにあらずで、なすべき事が気になり、立っ
てしまっているだろうか。主は彼の目を開かれたように、私たちの
なかなか見えない心の目も開いて下さる。

御言葉により触れて下さり、ぼんやりしていたのが、少しづつ少し
づつはっきりとわかるようにして下さる。主が見えるようにして下
さる。彼は、ぼんやりした状態ながらも、じっと見つめ続けた。
今、まだよく見えなくても、御声に耳を傾け続けよう。必ず少しづ
つはっきり見えるようにされる。
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主との深い交わりを経験するときは、現実の生活の中でも霊の目は
しっかりと主を見て喜んでおれるのに、何と多くの時間をぼんやり
した目で歩んでいることだろう。