2017年12月19日(火) 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4:4
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4:4
ハバクク書にこんな御言葉がある。「いちじくの木は花を咲かせず、 ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食 物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、 私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」。何とい う事だろう。花は咲かず、果物は収穫なく、畑は不作、家畜も死滅、 見渡す限りの不毛地帯だ。ひどい絶望状態だ。 しかしすべてを失った中でも「主にあって」「救いの神にあって」 喜ぶことができると。どのような状況の中でも、喜べると。私たち は畑は豊作、受験は合格、商売は繁盛なら喜べるだろうか。しかし、 パウロやハバククが喜んだのは、「状況にあって」ではなかった。 「主にあって」であった。状況にあって喜ぶなら、常にアップダウ ンしていなくてはならない。 状況が良い時は喜び、悪くなると落ち込み、落胆し、気力が失せ、 「いつも」喜ぶことなど不可能だ。しかし状況でなく、主を仰ぎ見 る時に、主は必ず良くして下さる、必要は与えられる、万事益とな る、主は生きておられるので、御言葉により導きや指針が臨む。常 に希望がある。 痛い所、厳しい所、苦しい所を確かに通るが、そこで新たに主に出 会い、主を経験して行ける。私たちにとっての喜びとは、単に安穏 な生活でなく、主を知ること、主の愛を、真実を知る事ではないだ ろうか。苦しい状況の中で、主の力、支え、慰め、励ましを受けて 行ける。だから喜ぶことができる。 ----------- 喜べていないならそれは何故だろう。何によって喜べるのだろう。 いつも主にあってと言われている。今日一日でも信仰の目で喜んで みよう。状況に関わらず喜んでいるならそれは大きな証とされる。