2018年03月19日(月)

「さばいてはいけません。さばかれないためです」マタイ7:1



裁判とは、法律を基準に、照らし合わせて、判定される。しかし、
「さばく」とは、自分の都合の良いものさしで判定することだ。あ
くまでも自分の主観的な偏見のあるものさしだ。しかし他人をさば
く時、自分は絶対的に正しいと信じている。それは、自分を神の座
に置く事になる。そして、自分の事はいっさい棚上げだ。

実は、さばく自分の内に同じものがあると。だからこそ相手の内に
見える。肉の性質は人を裁いて行く。自分が優位に立った気になる
からだ。人を見下す罪の性質だ。しかし真のさばきは神にしかでき
ない。人間は、皆、間違う。相手の外側しか見えず、心の内は全く
見えない。その動機もわからない。うわべでしか判断できない。

逆に、もし自分が人からさばかれたら、どうだろう。うわべで判断
され、批判され、悪口を言われ、見下されるなら、どんなに傷つき、
腹を立て、又落ち込むことだろう。それを平気で人にしてしまう。
裁きから守られるためには、まず自分のメガネをはずす事だ。それ
が梁になる。ある人が、窮地に陥った人に対して、冷めた思いしか
持てなかった。自業自得だとしか思えない。そうすれば、当然こう
なるだろうと。

しかしとにかく思いを主に告げ、祈っていると、御霊が突然、相手
の立場に立たせられた。もし自分がその人なら・・、どんなに辛い
かと、自分はとても耐えられないと苦しくなり、ひたすら祈らされ
た。その窮地は解決し、主のお心に触れさせられた。さばきと何と
対極だろう。
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はっきり見えて判断する事ができないものをたやすく裁く。人の事
より自分の罪を認めたい。裁く思いに支配される自分に誇れるとこ
ろなど無く、人を裁いている場合ではないと示される。