2020年03月19日(木)

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」ルカ7:47



この女性が、主をよけい愛したとあるが、これは、主を愛するその
前に、主がどんなに大きな愛で、深い愛で、愛して下さったかを知
っていたからこそ主を愛した。それに対して、女性の罪は赦されて
いると言われた。その後に「少ししか赦されない者は、少ししか愛
さない」と言われた。

何となく多く愛すると、多く赦されるように感じてしまい、もっと
献げ、もっと奉仕し、と思うがそうではない。まず主に多く赦され
たので、主を多く愛する者となって行く。こんなにも醜い罪人の自
分を赦して下さったから、その赦しを知るほど、愛する者へと変え
られて行く。ある人が、もっと祈り、聖書を読まなければと思うが、
しんどくなり、義務になる。

そんな時、問題が起きて自分がいかに酷く罪深いかを思い知らされ
た。打ちひしがれ、立ち上がれないほどだった。その罪が赦された
事を経験した時に、自分が変えられた。罪の赦しも頭の中の事で、
実感無く、自分は正しい人間だった。それが初めて赦しを実感した。
赦される喜びに満ちた。それ以来、義務感でなく、そうしたいから
主に仕えるように変えられた。

どんなに赦されているかを知る時に、おのずと愛が湧き出でる。別
の人も、余り自分の罪がわからなかった。しかし信仰生活の中で、
様々な出来事を通して、御霊は罪の大きさを知らしめて行って下さ
った。その赦しを受け取った時にやはり喜びが満ちた。主への思い
が変えられた。赦されるとは何という幸い。
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罪を赦されたという深い感謝と喜びは、思わず涙で主の足をぬらす
主に対する愛の行為になっていく。自分の小さな努力が愛されるに
ふさわしいと思っていく時、気づきたい。