2021年01月19日(火)

「イエスは・・その両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、『何か見えるか』と聞かれた」マルコ8:23



人々が盲人を主のもとに連れて来た。主は盲人の両眼につばをつけ、
両手を当てられ「何が見えるか」と問われた。彼は見えるようにな
り「人が見える、木のようだが、歩いているのが見える」と答えた。
見えるのだが、はっきりとではなく、人が木のようにぼんやり見え
た。だが、まだ鮮明ではなかった。そこで主が再度、彼の両眼に両
手を当てられた。

そして彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっき
り見えるようになった。つまりまず目が開かれ、ぼんやり見えるよ
うにされた後、彼が続けてじっと「見つめて」いた時に、全快し
「はっきり」見えるようになった。私たちはどうだろう。主がぼん
やりしているだろうか。見えてはいるのだが、人が木のように、ぼ
やっ〜としているだろうか。

それならまず、はっきり見えない事を認めよう。そこから祝福は始
まる。見えているのか、見えていないのか、あいまいにしていれば、
ずっとあいまいなままだ。次に、はっきりと見えるよう、主に祈り
求めよう。彼は、じっと見つめた。主がはっきりと見えるために、
主との親しい交わりが必要だ。

この世の事に忙殺され、主との交わりがないがしろになっているだ
ろうか。主を知るためには時間が必要だ。そして信仰は聞くことか
ら始まり、聞くことは、みことばによる。御言葉を聞き、学ぶこと
は非常に大切だ。そのための時間を献げよう。時間があれば、御言
葉に向かおうと思っていると、時間は全く無い。

少しの時間でも聖別しよう。主は必ず豊かに祝福して下さる。特に
示された御言葉には従おう。そうして行く時に、主が、目を開いて
下さって、はっきりと見えるようにして下さる。
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主を個人的に知るには時間が必要だ。主に語り、心を主に向ける時
間を大切にしよう。生きている限り、新しく主を知っていきたい。
目がはっきりと見えるように祈ろう。