2021年05月19日(水)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は 見えるということです」ヨハネ9:25



主は、盲人に不思議な事をされた。地面につばきをして、泥を作り、
その泥を盲人の目に塗られたのだ。そしてシロアムの池へ行き洗う
ようにと。シロアムの池はエルサレムから1キロほどだが、目の見
えない人が行くのは大変な事だ。もし初めての道なら、どんなに困
難だろう。更に池は下って行かねばならない。

「そこで、彼は行って、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、
決して出来ない事だ。そんな事があるものかと信じないなら、まず
行かない。しかし彼は言われた通りにした、その時に奇跡が起きて、
見えるようになった。ここからが問題で、パリサイ人達が、安息日
にいやしたと、主を批判し、攻撃し、見えるようになった彼も連行
され尋問された。

彼らにありのままを話したが、彼らは主を信じない。だが、見える
ようになったという、目の前の事実は否定出来ない。「あの人を何
だと思うのか」と聞かれ「預言者」だと答えた。彼は、主が誰なの
か、よく知らなかったのだが、神に遣わされた人でなければ不可能
だと思った。

彼らは、彼の両親を呼び出して、本当に生まれつき盲人なのかと確
かめた。再度彼を呼び出し、主が罪人である事を認めるよう迫った。
が、彼は盲目であったが、今は見えるという事実に、神から出てい
なければ、そんな事は不可能だと言い切った。

会堂から追放された彼に、主がご自身を現わされた。彼は「主よ。
私は信じます」と信じる者にされた。そして主を礼拝した。霊の目
が開かれ、真の救いを得た。これこそが、神の栄光であった。

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彼は、目が物理的に見えるようになっただけでなく、霊の目が開か
れて主の救いに入れられた。信仰が与えられた。私たちもそれぞれ
様々な動機で、主のもとに来たが、一つの事をはっきりと知ってい
る。以前は見えなかったのに、今は主が見える