2022年02月16日(水) 「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他 国人のもののようにみなす」ホセア8:12
「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他 国人のもののようにみなす」ホセア8:12
主はイスラエルの人々ために、多くの教えを与えられたが、彼らは それを他国人のものとみなした、と言っている。主は語りかけられ るのだが、他人事、よそ事として聞き、決して自分たちへ向けたも のとは受け取らなかった。 つまり自分とは無関係な事なので、御言葉がとどまらず、通り過ぎ てしまう。私たちはどうだろう。礼拝でメッセージを聞く時、又、 個人で御言葉を読む時、他人事として聞いていないだろうか。自分 の事として聞かなければ、無意味な事を学び、頭ではよくわかるの だが、右から左へと流れ去っているだろうか。 傍観者であるなら、心に留まらない。御言葉が心に刺さることも、 根づく事もない。又、自分には当てはめないが、他人に当てはめ て、 あの人に、この人にピッタリだと。あの人、この人にと。しかし御 言葉をそのように聞くべきではない。ただただ、自分の事として聞 くべきだ。 御言葉の物差しを人に向けてしまうと、いつしか裁きとなってしま う。私たちは、日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。他国人のもの のように聞いていないか振り返ってみよう。礼拝メッセージを、御 言葉を、自分自身に、自分の生活にしっかりと当てはめよう。適用 しよう。 御言葉は光として、心の内を照らし出し、鏡となり自らの本当の姿 を映し出す。心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、 罪の指摘や矯正がある。そして聞くだけでなく、従って行く時に初 めて、自分が変えられる。一歩一歩成長して行ける。ますます主を 知って行ける。 ------------- 苦手で流していた聖書箇所が、今になって自分のための御言葉だっ たと気づく。出来ません、今はそう思えませんと祈る事は出来たの ではないか。御言葉を丁寧に受けとろう。いつまでも学びたい。