2024年03月19日(火) 「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナ リの約束をしたではありませんか・・ただ私としては、この最後の人 にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」マタイ20:13
「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナ リの約束をしたではありませんか・・ただ私としては、この最後の人 にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」マタイ20:13
天の御国が、ぶどう園の労務者を雇う主人に例えられている。早 朝、9時、12時、5時に雇い、早朝の者には「1デナリ」の約束、9時 と12時は「相当のもの」を約束した。そして報酬の段になると、全 員一律1デナリだった。すると早朝の者が不公平だと文句をぶつけ た。長時間働いたのに同額とは、納得が行かない。5時なら、もう 片付けに入る頃だ。 この世の会社組織で起きたなら、混乱は間違いない。しかしこれは 天の御国の事を言っている。「私は気前がいいので」と主人は、溢 れるばかりに与えたい主人だ。特に5時の者は、働きたくとも誰に も雇ってもらえず、5時までその日の糧が無い中で、どんなに不安 で心細い事だったろう。それが一転どんなに感謝な事だったろう。 あわれみ深い主であり、天の御国は、成果主義でなく、あわれみが 支配する場所だ。逆に、早朝の者は、1デナリの契約があり、1日 働けば、1デナリが保証されている。何の不安も無かったろう。実 はこれも大きな恵みだ。雇用されたのであり、され無かったらどう だろう。それが、横を見て比較した途端、何もかも吹き飛んで、不 満と怒りしか無くなった。 比較にほんろうされると、妬みに陥ってしまう。又、動機も明らか になってしまった。主人のために働く事は、したくない嫌な苦しい 事だった。私たちはどうだろう。嫌々、強いられてだろうか。動機 はどうだろう。今一度、主との交わりの中で、恵みと感謝に立ち返 らせて頂こう。溢れるばかり気前のいい主だ。 ------------- 比較に陥ると事実が歪んで見えてしまう。気前の良い主のあわれみ により救われた者だ。そして、すべての思い煩いを主の上に投げか ければ深い平安で今日を喜んで生きていける。何という幸いだろ う。