2025年10月19日(日)

「キリストは・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられ ても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せにな りました」Tペテロ2:22



私たち信仰者は「異邦人の中にあって」生きている。そして
人々は、私たちの生き方を見ていないようで、しっかり見て
いて、観察している。主は「立派に振る舞え」と言われる。
信仰は常識を超える事はあるが、決して非常識ではない。
「愛は、礼儀に反する事をせず」と。

信仰者として、法律を、社会のマナーを守って行く。人々は、聖
書は読まないが、クリスチャンという人々がどんな生き方をす
るのか、その生き様を通して、聖書を知る。信仰者は、歩く聖
書だ。「御霊の実は、愛、喜び、平安・・」、世の人々が、喉から
手が出るほど欲しいものが、「愛、喜び、平安」だ。 「人の望む
ものは、人の変わらぬ愛である」とある。

誰しも愛し、愛されて生きたい。それが得られないので、他の
もので満たそうとする。又、外側からの刺激による喜びしか、
この世にはない。何か嬉しい事、楽しい事が、あるから喜べる。
しかし、私たちの喜びは、外側の事柄に依存しない。内側から
湧き上がる御霊の喜びだ。又、恐れ、思い煩いにある、世の
人々にとって、平安は何と魅力的だろう。

誰しも欲しい。主に委ねて、主を第一として生きる時に、この平
安に満たされる。それらは内側から溢れる。御霊の実である愛、
喜び、平安がある時に、弱さや失敗はあっても、何かが違うと
人々に思わしめる。私たちの振る舞いを見て、おとずれの日に、
神を誉め称えるようになると。何という報いだろう。すべては自
分の力でなく、御霊による事なので、自分を明け渡して行く時に
みわざがなされる。祈ろう。

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この世では、自分の欲望、願望が叶う時に、幸せになり、満たさ
れると思う。しかし、肉の願望は一瞬の快楽だけで、決して満た
されない。主の願いを第一にする時に、自分が満たされる。
喜びがある時、それが証しとされる。