2006年07月19日(水)

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」ローマ4:18

「望み得ないときに望みを抱く」
のが信仰だ。目に見えるなら、も
はや信仰はいらない。望み得ない
のだから、現実を見るなら、望み
のかけらも無いという事だ。神の
言葉を信じるのであって、人間的
な実感など無いという事だ。「感
じ」無い。神の真実のみが、私達
の拠り所だ。保証は、神にあり、
自分の中の何かにあるのではない。
環境や状況、目に見えるところか
らは、何も感じる事が出来ず、得
るところがない。神が約束して下
さった言葉の中にのみある。アブ
ラハムは、約束の言葉をそのまま
受け入れ信じた。約束を与えられ
ていたが、現実は相容れず、相反
する状態にあった。矛盾状態だ。
サラの胎はすでに死んでいる、そ
の真っ暗闇の中で、目に見える状
況ではなく神の言葉を取った。肉
には何の手応えも、実感も無い。
見えるところによらないのが信仰だ。
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ハガルの不信仰もあったアブラハム、
なぜ信じれたのだろう。「主は現わ
れ」主がご自身を現わされた、臨在
によったのか。何よりも日ごとに生き
生きとした主との交わりの生活がいのちだ。