2008年06月18日(水)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3   

     
  
私たちもあるだろうか。幾ら懸命に祈ってい
ても願いが叶えられない、物事が全く自分の
思い通りにならない、そういう時こそ、幸い
な時、自分が試される時だ。誰でも祈っても
祈っても願い通りにならないと、がっかりし、
落胆する。又、怒りが湧くかも知れない。そ
んな時こそ、新たに神を知る恵みの時だ。御
利益の無い神など用はないと、自分の願いを
叶えてくれる神を探すだろうか。そうなら、
神はその人のしもべでしかない。「彼らの神
は彼らの欲望であり」の通り、自分が神であ
り、自分の欲望が神だ。神を神として礼拝し
ているのではなく、自分の願いを叶えてもら
うために、神を拝んでいる。それがまことの
神を拝んでいたとしても、自分の欲望のた
めに拝んでいるのだから、結局は自分の欲望
を拝んでいる事だ。それが偶像礼拝だ。自分
はどうだろう。自分の願いを叶えて貰いたい
だけだろうか。神を神として礼拝して行く人
は、自分を通すのでなく、自分を砕いて行く。
神の御思いに従って行く。願いが叶えられな
い時、自らを御霊の光に差し出す。動機が間
違っていないか。自我からの要素がないか。
何を言わんとしておられるのか、へりくだっ
て知ろうとする。その時、動機をきよめられ、
祈りが軌道修正される。自分が変えられ、神
と一つにされて行く。そして祈りは答えられ
る。
・・・・・・・・
祈りが願った通りに答えられない時こそ、神
を知る時だ。自分の願いと、神の願いがある。
そこで明け渡して、神が私に願っておられる
事に、視点を変えて求めて行こう。神のお心
に行き着く。