2008年11月18日(火) 「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4
信仰生活、いつも神の御言葉に立つよう教えられる。しかし、目に見えるところと 神の御言葉が相容れない時、現実とズレがある時、どうしているだろう。 ある人が二つの「しかし」があると言った。厳しい困難が生じた時、「神は益とされる」 「神は最善をされる」「神はご計画をお持ちだ」「神は愛して下さっている」でも、 「しかし」、こんな状況で、この真っ暗な現実で、どこが神が愛なのか。 神が愛ならなぜこうなのか。どこが最善なのか。最悪ではないか。何で信じられよう、の 「しかし」だ。 もう一つは、目に見えるところ真っ暗闇だが、何も見えないが、「しかし」神を信じ、神 の愛を信じ、神の言葉を信じようの「しかし」だ。 どちらに立つかで、天と地の差となる。信仰の「しかし」を選び取り、何も見えなくとも そこに立つ時、御霊の実を結んで行く。 不信仰の「しかし」を選ぶなら、愚痴と不平不満、失望落胆、怒り、落ち込みの肉の実を 刈り取って行く。 ある人が、家族が次々と病やけがに倒れ、身動き取れない困難のまっただ中で、信仰の 「しかし」を選び取り、最善以下をされない事を信じ、神に感謝した。 すると、その信仰は本人だけでなく、周囲に大きな励ましと天の潤いをもたらした。 そして目の前の状況が一つ一つ導かれて行くのを見た。 ---------------------------- 御霊に満たされていなければ、神様の御約束より、不信仰の「しかし」の方が確かに思える。 自分の恐れや思い煩いに、飲まれないよう御言葉の約束を握り、御霊の導きを選び、信仰に より勝利して行こう。