2024年12月09日(月) 「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私 を打つためのサタンの使いです」Uコリント12:7
「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私 を打つためのサタンの使いです」Uコリント12:7
パウロは、辛く苦しいとげが与えられた。とげは、容赦無く突き刺 し、どんなに激しい痛みにさいなまれた事だろう。私たちにも、今、 とげが与えられているだろうか。親子関係や夫婦関係の悩み、対人 関係のいざこざ、厳しい経済的苦境、仕事上の困難な問題、病気や けがの痛み・・様々なとげがある。 パウロは、このとげを去らせて欲しいと、真剣に切に祈った。この とげさえ無ければ、もっと宣教活動に専念できて、スムーズに働け るのにと。私たちも、とげから解放されたい。この痛みを、この問 題を、とげを取り去って欲しい。何とか解決しようとするのだが、 どうにもならない。苦しい対人関係を、何とかしようとするのだが 、ますます感情的にもつれ、問題が絡み合い、溝は深まり悪化する ばかりだ。 経済的問題を何とかしようとするが、尚も想定外の出費がかさみ、 どうなっているのか。パウロは主の御心を知らされた。「高ぶらな いために」与えられていると。サタンからのとげであったが、主が サタンをも利用され、へりくだらせて下さるためだった。そして主 の恵みは十分で、主の力は、弱さの内に完全に現われると。 世の価値観は根深く、強さの中だと勘違いする。が、そうでなく弱 さの中だと。弱さの中に主の臨在があり、主が現われて下さる。だ からこそ、大いに喜んで弱さを誇れと。とげは、へりくだって主に 拠り頼むためであり、頼り続けるためだ。そこに主の力が現される。 自分を明け渡し、主に働いて頂こう。主の栄光を拝する。 ------------- 弱さや苦痛を喜ぶことは出来ないが、祈っても祈っても去らないの は、そこに意味があると信仰によって受け止めたい。わたしの恵み は十分であると私にも語られている。