2009年05月18日(月)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ」Uコリント7:10



モーセが、民をエジプトから救い出すために、パロと掛け合う。
神の様々な超自然のみわざにより、苦痛が臨むとパロは「私は罪を犯した」「悪かった」「私のために祈ってくれ」という一見悔い改めの言葉を発するが、その災いが鎮静化するや、再び頑固な姿に戻る。

これは、それらしき言葉は発するが、心の底ではそう思ってはいないという事だ。
真の悔い改めなら、必ず実を結ぶはずだ。神は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」にしるしを行なわれる。

しかし、パロには、様々なしるしが、主を知ることにはならず、脅しみたいなものであった。
だからその脅しが退けば、再び強情になった。私たちはどうだろう。神の愛により、もし高慢に歩んでいたなら、へりくだるように苦しみを送られる。

これは神の愛であり、放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しのように取るなら、確かに悔い改め、反省し、自らを正すのだが、その苦しみが無くなると、元に戻ってしまう。

成長なく古い自分のままだ。何も変わらない。真の悔い改めに至らないから、実を結ぶ事がない。
自分は悪いと思わないが、苦痛を回避したいだけか、それとも自らの罪を認め、悔い改めているのか。真の悔い改めは必ず実を結ぶ。御霊は豊かな実を結ばせて下さる。
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悔い改めは、これからの祝福のためだ。豊かに実を結ぶ者として整えられ、変えられたい。弱さゆえに繰り返す過ちはあるだろうが、今、自分の悔い改めの動機は何だろう。よく吟味してみよう。