2009年07月18日(土)

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」ヨハネ11:4

                             
ラザロが病気になり、マルタとマリヤは主のもとに使いを送った。きっと主はす
ぐに来て下さると思ったろう。気が気ではなかった。主さえ来て下されば、ラザ
ロは助かる。

しかし、主は来て下さらず、ラザロは死んでしまった。主が来られたのは、死後
4日目だった。マルタ達の思いとは異なり、主にはご計画があった。病気を治す
事でなく、よみがえらせる事を意図されていた。

けがや病気なら治る、壊れた対人関係でも回復の可能性はある、しかし、死だけ
はどうにもならない。誰もどうにも出来ない。絶対無力、限界、絶望だ。その死
をも支配する神の御力を現わすため、そして「あなたがたが信じるため」だった。

将来よみがえる事は、教理としては頭で容易に信じられる、しかし、今、目の前
の事が信じられない。現実だからだ。頭では理解し、山ほどの聖書知識もあるが、
目の前の実際は信じる事ができない。私達の姿だろうか。

「その石を取り除けよ」心に石があり、見える所、常識で不可能だと結論づけて
いる。まず自分の心にある、「無理」「不可能」という不信仰の石を認める事だ。

「不信仰な私を助けて下さい」と主に向かう時、主は信仰を与え、みわざをして
下さる。心で、無理、不可能と決めつけていないか、諦めてしまっていないか、
心探ってみよう。
主は目の前の苦しみ、悲しみ、どうにもできない、墓の中にあるような事態を通
して、主の栄光が現われるようにして下さる。信じて行こう。

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石を取りのけた時、ラザロのよみがえりを見、素晴らしい神の栄光を拝した。信
じていない、信じようとしない自分を認める時、御霊は助けて下さる。妨げてい
る諦めの石、不信仰の石を悔い改め、取り除こう。神のみわざを見て行く。