2010年01月18日(月)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです・・主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:17

  

寒暖計は、気温を計って示す。暖かければ温度は高く、寒ければ低い。私達も寒暖計だろうか。周囲に反応して、生きているのだろうか。相手が優しければ、こちらも優しくなり、相手が冷淡であれば、こちらも冷たくなる。

相手に怒りをぶつけられると、更なる怒りで返す。相手の状態にそのまま反応してしまう。これなら相手にコントロールされていて、相手次第になる。自分がまるで無い。

更に、自分が怒るのは、相手が怒るからであり、怒る相手が悪いとなる。すべて人のせい、環境のせいにして生きて行く。主体性がどこにもない。責任を取る事もない。信仰とは正反対だ。

何があっても、どうなろうと、決して人のせいにせず、環境のせいにせず、神を信じて生きて行く。忍耐とは、人や環境のせいにせず、神を信じることだ。
神だけを見上げ、神が自分に良くして下さる事を、右にも左にもそれず堅く信じる。

試練のまっただ中で、事態をまっすぐに受け止めて、神を信じて行く、そうすれば成長を遂げた者とされると。周囲のせいにするなら、そこには不満と怒り、鬱屈しかない。他のせいにするのを止めると、不満の向かう先がないので止む。

それを神に向けるなら、何と心が変えられる事だろう。
人依存の屈折した生き方から解放される。自分が反応してるのは、状況と人か、それとも神だろうか。
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私達の行為の原動力は何だろう。安易に人を見て状況を見て、また自分自身の感情を見て決定しやすい弱さがある。だからいつも十字架の主に目を向け、落ち着いて祈ってみよう。必ず御霊に導かれ肉の束縛から解放される。