2011年01月18日(火)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8 



ある人が、生い立ちからの事情と経緯があり、父親に心を開けず、拒み、憎んでいた。そうなる幾多の理由があり、自分は被害者であり、父親が悪いとしか思えなかった。どうしても父親を赦すことができず、苦しい状態が続いた。

しかし、ある時、御霊に示された。父親自身に確かに間違いがあり、問題があり、多くの傷も受けたが、それは父親の問題なのであり、「憎んでいること、赦さないこと」は、どんなに言い訳したとしても自分の問題であり、それは自分の罪なのだと。自分の罪がはっきりと見せられた。

それで、それを認めて、告白し、神の御前に父を憎む罪を悔い改めた。ありのままを祈った。その時、心の中の苦しい大きな石のかたまりが溶けて行った。あれほどの憎しみが無くなった。

よく私たちは、自分が被害者だと思う時、相手が悪いとしか見えない。どう見ても自分は間違っておらず、相手が悪いとしか見えないので、出口が無い。しかし、相手を裁き、憎み、報復したいと思う自分も、実は罪を犯している。その罪ゆえに、平安が無く、心はますます苦しくなる。

しかし、自分の罪は見えず、どこまでも相手が悪いせいとしか見えない。暗闇の中だ。相手にも非があるにせよ、それは相手と神との関係だ。自分はどうだろう。自分も相手でなく、神との関係において、自分の責任を負う。
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人が悪いから憎み、人がいい加減だと裁く。そんな者だが神様の前に自分はどうか、それだけを見ていたい。人が平安を乱すのではなく真理からそれた時、心の平安は乱され自分の罪が示されていると覚えたい。