2011年03月18日(金)

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声を上げて叫べ」イザヤ54:1




この当時、神の民であるイスラエルは、不信仰に陥り、偶像礼拝をするようになっていた。北王国の首都サマリヤ、南王国の首都エルサレムが敵に滅ぼされ、国土は荒廃し、城壁は崩れ、神殿は破壊された。人々は、バビロンに捕囚となった。王も、指導者も、国土も、家も、所有物もすべて失った。

そんな時に、イザヤが「不妊の女よ。喜び歌え・・喜びの歌声をあげて叫べ」と語った。「私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか」が民の思いであり、悲しみと嘆きであった。神が与えて下さった素晴らしい恵み、祝福を見ながら、神を足げにして、神に背き、偶像に走り、自分勝手に歩んだ。

何度も悔い改めの呼びかけ、機会を与えて下さったに関わらず、心を頑なにした。今や「みもとに帰らせて・・私たちの日を昔のように新しくしてください」であった。私たちも民と同様かも知れない。「ああ、昔は良かった。あの時に帰れたら・・」現状は苦しみの日々であり、先も見えない。いつまでこうなのか。

しかし主が「喜び歌え。喜び叫べ」と言われるのは「不妊の女」に対してだ。「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多い」と。目の前に失望落胆しか無い現状、辛い状況、自分の内の無力、弱さ、そのまっただ中で「喜び叫べと」。大いなる祝福が待ち受けている。すべてを益とし、最善をして下さる主がおられ、愛し、慈しんで下さっている。その主が良くして下さることを信じて行こう。
----------------
苦しみの中でなぜ喜べるのか、それは神が言われるからだ。今日も生かされ与えられている命は神からのもの。その恵みに目を留め、御心を力強く歩もう。