2011年07月18日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18 



私たちは、主に従って行きたいと思う。しかし、主に従う事を、自分の力でやろうとすると、どうなるだろう。例えば、腹の立つ事態に遭遇すると、「主は柔和なお方、主のようでなければ」と、怒りをぐっと我慢するだろう。又、相手の態度にイライラすると、「主は忍耐のお方、忍耐しなくては」と、いら立ちを封じ込めて、我慢しようとする。あちらでも、こちらでも、我慢を重ねる。

しかし、我慢は許容量を越えると、必ず爆発する。定期的に爆発しては、それまでの証しが台無しになる。あなたも経験あるだろうか。我慢する事は、心の底に抑え込むだけなので、溜まると大噴火する。主に従うとは、抑え込んで我慢する事ではない。それなら、表面を、外側を取り繕うだけになる。クリスチャンである事は、フラストレーションのかたまりになってしまう。

そうではなく、抑え込み、歯を食いしばって頑張り、じっと我慢するのでなく、「我慢できません」「忍耐できません」「腹が立ちます。助けて下さい」と主に心の内をありのまま告げ、受け止められ、主から力を受けて、歩む生活だ。まず、そのままの自分を、主にことごとく打ち明けよう。主は喜んで受け止めて下さる。そして、御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて下さる。その御声に従おう。出来ないと認め、表明し、助けを求めているので、御霊が働かれ必ず助けて下さる。
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素直に従えない胸の内を我慢する前に、主に祈り、直面している問題に主の関与を求めよう。祈る中で主が語られ、心が整えられて行く。心は平安に次ぎの一歩を示される。