2011年12月16日(金)

「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません・・家に帰ってみると、しもべはよくなっていた」ルカ7:9


百人隊長は立場上、権威というものをよく知っていた。自分が命令するなら、自分の言葉通りに部下は動く。それゆえ主イエスの権威を認めていた。来ていただくに及ばず、ただお言葉をいただけば十分だと言った。主を信じるとは、その権威に裏打ちされた御言葉を信じる事だ。状況に関係なく、神の言葉が成就して行く。

私達はどうだろう。主の主権と権威を、真剣に信じ、認めているだろうか。自分の思い通りに、事が進むなら、神を認めるのだが、自分の思い通りでないと、「何で?神様はひどい、なぜ?」と、ひがんだり、反抗したり、文句だらけだ。都合の良い時だけ、神の主権を認め、都合が悪くなると、手の平を返したような態度になる。これは神中心でなく、自分中心の信仰だ。神の栄光や神の御思いに中心があるのでなく、自分の思いに中心がある。私達はどうだろう。

又、百人隊長は謙遜だった。主を「私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と、自分には資格が無いと、どこまでもへりくだった。人々は、人間的見方で評価するが、百人隊長は神の御前には、人間の功績や行ないなど、何の役にも立たないと知っていた。しかし、資格の無い者の願いを、主はあわれみ、受け止め癒して下さると信じた。御言葉を頂けるなら「そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」。その信仰に驚かれ、賞賛された。
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神様は自分の都合に合わせるお守りではなく、どこまでも従うべきお方だ。神様の主権と権威の前に謙遜にへりくだり信仰を持って祈り続けよう。