2012年10月18日(木)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」箴言3:6


聖書の中に、偶然は無い。人間的に見る偶然は、すべて神の必然だ。ルツ記で、故郷に戻るナオミとルツに、主の大きなあわれみと慈しみが備えられていた。帰郷が丁度「大麦の刈り入れの始まった頃」だった。ナオミとの生計のため、ルツが落ち穂拾いを始めたその畑が、図らずもボアズの畑であり、丁度その時、所有者のボアズがやって来て、懸命に働くルツに目を留めた。「その翼の下に避け所を求めて来た」ナオミとルツへの主からの備えであり、素晴らしい祝福であった。少し「時」がずれていたなら、後に続くみわざは無かった。神の必然であった。

又、エステル記では、ハマンの悪巧みにより、ユダヤ民族絶滅の危機に陥った。丁度その時、エステルが王妃の地位にいた。エステルは、王を宴会に招き、王に危機の救いを願おうとした、丁度その前夜、王は眠れず、年代記を読ませ、モルデカイの手柄を知った。そして、翌日宴会の席で、ハマンの陰謀を知らされた。王はエステルの願いにより、ユダヤ民族に救いの手を延べた。

「私の時は、御手の中にあります」の通り、私たちのすべての時は、主の御手の中にある。偶然は一つもなく、一つ一つの状況がご計画の中だ。それゆえ「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」。環境に、不平不満、愚痴でなく、そこに主を「認める」ことだ。そうするなら、主が見えて、「主はあなたの道をまっすぐにされる」私たちの成長がある。
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目の前に来る状況の一つ一つが今はわからなくても主のご計画の内で「図らずも」の備えの中を生きている。恐れや不安、愚痴より、その意味や目的を主に問い続けて歩んで行きたい。