2013年04月17日(水)

「神へのいけには、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17


カインとアベルの兄弟がいて、カインは作物を作り、アベルは羊を飼っていた。それで、それぞれ主に献げものを持って来た。アベルの献げものは受け入れられ、カインのものは受け入れられなかった。「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」何かが正しくなかったのであって、主に問うて、献げ直せば良かった。

しかし、カインの激しい怒りと妬みは、弟アベルへと向かい、アベルを憎悪し、殺してしまった。主は「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われた。「知りません」と、自分は弟の番人ではないと、答えようとしない。主は悔い改めの機会を与えられたのであり、そこで「私が殺しました」と告白することができた。罪を犯したアダムにも、同じように「あなたはどこにいるのか」と御声をかけられ「食べてはならないと命じておいた木から食べたのか」と悔い改めの機会を与えられた。

あわれみ深い主は、いつも主のほうから悔い改めのチャンスを与えて下さる。御霊の促しが臨むなら、心素直に従い、悔い改めよう。その御声に従わないなら、更に罪に罪を重ねて行ってしまう。肉は、カインやアダムと同じだ。聞きたくないし、「知らない、弟の番人か」とうそぶく。そして、肉は、自分は悪くない、自分を正当化し、責任転嫁して行く。「私は主に対して罪を犯した」とダビデのように悔い改めよう。姦淫と殺人の大罪をも、主は赦して下さる。主の深いあわれみは尽きない。
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肉はいつも悪くない、謝りたくないと自分を通し一歩たりとも引く事はできないが、私達は繰り返し失敗する者だ。罪を示されることも愛ある神様の導きだ。悔いた心をいつも神様に献げよう。