2013年09月16日(月)

「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。 主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、そ れが・・われわれを敵の手から救おう」Tサムエル4:3



偶像礼拝とは、ただ単に金や木や石で像を作り、像にひれ伏す事で
はなく、神を自分の願望、欲望のために利用しようとする事だ。自
らを砕いて、御前にへりくだるのではなく、自分の幸福や、利得の
ために、どこまでも自分のために、神を持って来ようとする態度だ。

だから、自分はきよめられる事なく、何一つ変えられる事も、正さ
れる事もなく、神は、ただ自分の欲のための手段となる。神を自
分のために、引きずり回し利用する。イスラエルの民は、ペリシテ
との戦いで敗北した時、主の契約の箱をかつぎ出して来た。箱をか
つぎ出して来さえすれば、勝てると思った。

しかし、契約の箱を持ってくれば、神をかつぎ出せるのではない。
そもそも、自分達の都合のために、神を動かそうなどという考えが、
根本的間違いであった。イスラエルは打ち負かされ、箱まで奪われ
た。

神は箱を奪われるがままにされた。神が守る事が出来なかったので
なく、神が敗北させられた。裁きであった。主の箱の中を見た、ベ
テ・シェメシュの人々を激しく打たれた。神を畏れ、崇め、ひれ伏
すのでなく、好奇心と興味でのぞいた。

自分の欲望充足のために、神をかつぎ出し、自分に仕えさせる。そ
うでなく、神を神として崇め、御前にへりくだって自らが仕えて行
く、これが方向変換であり、悔い改めだ。神の喜ばれる態度だ。そ
うする時に、神は豊かに祝福して下さる。

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主の御前にへりくだって、主に従い、主を崇めて歩むことが、本来
の姿であり、そこに初めて真の心の満たし、平安、喜びがある。自
分、自分、になっていないか、心照らされ、目の前の御心に従って
行こう。