2013年12月18日(水)

「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい」ルカ9:23

「自分の持っている何かを」捨て、ではなく、「自分を」捨てて、と言われている。私たちの自我を日々十字架につけて、ついて行く必要がある。私たちはキリストにあって義人であると、神は見て下さっている。すでに義人であり、神の目から見たなら肉の中にはいない。

古い人はすでに十字架につけられた。しかし、同時に、天国に行くまで、自分の内に肉があるので、日々に自分を捨てて、歩むことになる。泥酔やギャンブルや、妬みや、憎しみの罪はストレートでよくわかる。しかし、醜い自我だけでなく、自分の心を占領し偶像になっているのは、良いものかも知れない。

サウルは「最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないもの」を聖絶した。私たちもどうだろう。最も良いものを取っておき、どうでもよいものだけを捨てているだろうか。時間や労力を献げて懸命に奉仕するが、実は、自分を喜ばせる自己満足、自己実現やプライド、つまり自我がますます太っているかも知れない。それなら、ますます自我が強くなる。

「山を動かすほどの完全は信仰」を持っていても、自分の栄光のためということになる。御言葉通り、自分を捨てなければ、結局、無に帰してしまう。御霊は、具体的に自分に死ぬことを、示して下さる。それはへりくだって譲る事であったり、謝罪する事であったり、批判を受け止める事であったり、痛い事を受け入れることだ。従って行こう。
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日々生活のいたるところで、古い自分を捨てる場面に遭遇させられる。高ぶる思いや、自分を否めない自分に気づかせられたなら、そういう自分であることを認めて捨てられるよう主に祈って行きたい。