2014年12月17日(水)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25 




預言によると、盲人の目が開かれる事が、メシア到来のしるしだっ
た。「そのとき、盲人の目は開かれ」、それゆえ、この盲人が見え
るようになった事は、まさに預言の成就であり、心開かれていたな
ら、主イエスこそが救い主だとわかるはずだ。しかし、主が、安息
日を破ったと非難したパリサイ人は、根が悪意であり、その目で人
を、物事を見るなら、すべてが攻撃材料となる。自己中心な邪悪な
心だ。

正当な非難だと言うが、実は根にある敵対心のゆえだ。盲人に問い
ただすが、彼の言葉にも全く聞く耳を持たない。盲人は身に起きた
事を素直に話しているにかかわらず、はなから否定してかかる。自
分は正しいとの位置に立つ時、このような状態に陥る。

彼は明確に、はっきりと的確に言った「盲目であったのに、今は見
える」と。物理的に見えるのでなく、霊の目が開かれて、神がわか
るのだ。パリサイ人は自分の思いで、自分の目で見た。「私たちは
あの人が罪人であることを知っているのだ」と。あの人はこうと最
初から決めつけ、そんな態度である以上、どんなみわざを見ても信
じる事ができない。

自らの偏見、思いを退けて、素直に主に向き合うなら「主よ、私は
信じます」に必ず導かれる。私たちは、この「ただ一つのことだけ
知って」いれば良い。私は罪人で滅びて当然の者であったが、主の
十字架の贖いによって、「私の」罪が赦され、「私は」救われた。
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自分が正当だと思うとき、耳も目も心もふさがれて、主のご愛も御
言葉からの光も入ってこない。放蕩息子の兄のようだ。いつも素直
に主の前に質問の手をあげる者でありたい。