2016年07月18日(月)

「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いをこう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人は幸いである」ローマ4:6 



何の働きもない者が、主を信じるなら、その信仰が義とみなされる。
神は、敬虔な者でなく、不敬虔な者を義と認められる。何と驚くべ
き事だろう。この世の価値観では、義と認められるのは敬虔な者だ。
何の働きも無い者でなく、立派に行ない、懸命に頑張る者が善だ。
全く相容れない。頑張る事が正しいので、結果が出ないなら頑張っ
ていない事になる。

ますます頑張らねばならず、極めて辛い歩みになる。しかし、不敬
虔というのは、罪深い状態であって、いかに自分が醜く、汚れ、自
己中心で、良いものが何も無いと知る状態だ。それを認める時に、
神は働かれ、義として下さる。不敬虔が義など、そんな事は、思い
もよらない事で、有り得ない事だ。これは一方的に主の側の豊かさ
によることだ。

ぶどう園の労務者の箇所で、早朝から12時間働いた者と、夕刻に
1時間働いた者が、同じ1タラントが支払われた。これは、早朝か
らの者は、きちんと主人と契約を交わして働いたのであり、正当な
支払いだ。ただ溢れるばかりに、あわれみと恵み豊かな主は、夕方
少し働いた者にも同じようにしてやりたかった。

仕事を待っていたが、雇ってもらえなかったのだ。主のあわれみと、
驚くばかりの「気前良さ」のことを言っている。この考えられない
ほどの、測り知れない恵みにあずかったなら、感謝しかないのでは
ないだろうか。
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何の頑張りも無い者が溢れるほどの恵みを与えられた。なんと感謝
なことだろう。いつでもそれを信じ続けることが敬虔で義だと主は
言ってくださる。その恵みを見失わないようにしたい。