2016年09月17日(土)

「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます『ダビ デの子のイエスさま。私をあわれんでください』と叫び立てた」マ ルコ10:48


バルテマイは、道ばたに座る、盲人のこじきだった。人々の哀れみ
を請うて生活していた。日々の糧にも困窮する貧しい暮らしだった。
人生を諦めて、絶望してしまうような状況だ。「なぜ自分が?」
「生きる意味があるのか?」深く苦悩し、考えただろう。しかし彼
はこのどん底で、どん底だからこそ、神への信仰を持った。

神にしか、望みが何もなかった。目は見えないが、耳は聞こえ、主
イエスの噂をじっと聞いていた。愛深い方、みわざをされる方、ダ
ビデの子孫として生まれると預言されたメシアだと確信した。その
主が来られると知ると、このチャンスを逃さなかった。普段からの
心の在り様がないと、こんな事はできない。

「私をあわれんで下さい」と主に叫んだ。なりふりかまわず、最後
の望みであり、必死に求めた。それが出来ない相手には、はなから
求めない。主にはそれが可能だと信じたから、すがりついた。大勢
が彼を黙らせようとしたが、屈せず、このチャンスを絶対に逃さず、
彼はますます叫び立てた。熱烈な、切なる、魂の叫びであり、主へ
の信仰だった。

主は、彼を呼び、「わたしに何をしてほしいのか」と問われた。
「目が見えるようになること」、彼は願いを明確に、自分の言葉で
表した。私たちが心底叫ぶ時、主は足を止めて下さる。叫びに答え
最善をして下さる。主に向かって叫び、主に求めよう。愛して下さ
っているので、答えて下さる。そしてその結果「イエスの行かれる
所について行った」。主に従う者とされる。

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何もできないバルテマイに、唯一できる事があった。「私をあわれ
んで下さい」と主に叫ぶことだった。叫ぶことができた。主はその
叫びを受け止め、答えて下さった。私たちも、何のすべもない中、
主に向かって叫ぶ時に、主は必ずその叫びに答えて下さる。