2017年01月18日(水)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9


サウルとダビデは共に王であった。しかし、二人の最後は大きくか
け離れたものとなった。どちらも罪を犯したのだが、サウルは神か
ら退けられ、ダビデは祝福へと進んだ。ダビデはバテシバとの姦淫
とウリヤ殺害の罪を犯し、サウルは祭司しか献げられないいけにえ
を、サムエルを待てないで献げ、また、アマレクを聖絶せよとの命
令に従わず、最も良いものを残しておいた。

ダビデはナタンから罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯し
た」と言い、サウルはサムエルから罪の指摘を受けた時に「私は罪
を犯しました」と言った。どちらも言葉にすれば同じだが、ダビデ
は、「主に対しての罪」だと、心底から悔い改めであったのに対し、
サウルは「しかし、私の面目を立てて下さい」と続き、「面目を立
てて」の方が本心であった。

サウルに悔い改めは無かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも
私の目の前にあります」「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、
あなたの御目に悪であることを行ない」と言い、逃げたり隠れたり
しなかった。しかしサウルは罪に向き合う事もなく、自分の犯した
罪の言い訳に終始し、兵士たちや民のせいにした。

大事なのは自分のプライドであり、名誉回復であった。そこに神に
対する悔い改めは無かった。サウルの最期は悲惨なものであった。
ダビデは悔い改め、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださっ
た」と罪が赦された。二人共、罪を犯したが、天と地ほどに違って
しまった。罪を犯した時こそ、主に向こう。
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誰もが罪を犯す弱さを持っている。けれど主に愛されていると信じ
、いつも主に向かい赦しを乞うことができる人生はなんと幸いか。
罪の悔い改めから主への讃美へと変わる瞬間をダビデを通しいつも