2017年03月18日(土)

「ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってく ださるのですか』」ヨハネ13:6


ある時、主が手ぬぐいを取って、腰にまとわれ、一人一人と弟子た
ちの足を洗い、ふき始められた。ペテロの番になると、「主が私の
足を洗って下さるのですか」「決して洗わないで下さい」と、余り
にも畏れ多いと拒んだ。この時代は、今でいうサンダルのようなは
き物で、砂ぼこりで常に足が汚れた。彼はその自分の汚れた足を、
我が師に洗ってもらうなどと、とんでもないと思ったのだ。

常識ではそうかも知れないが、信仰的には違う。それは自分の汚い
部分を、人に決して見せたくないという事だ。私たちも醜い部分、
弱い部分はおおい隠したい。誰にも知られたくない。自分も見たく
ない。しかし、主はそこをあらわにし、主が洗わなければ、何の関
係も無くなると言われた。その部分でこそ、主との関係が深められ
ると。

私達は見栄えの良いところ、能力のあるところを見せたい。人に認
められたいし、評価されたい。しかし、主との関係ではそうではな
い。弱い、醜い、汚い部分をすべて主に広げ、明らかにする時に、
赦され、新たにされ、造り変えられて行く。主は弱さを受け入れ、
罪を赦し、傷をいやして下さる。

主に心を開き、真実を打ち明けて行くことだ。その事により主との
関係が親密にされて行く。この世の価値観は、弱さは悪で、強いこ
とが善だ。しかし、弱さの中にこそ、神の力が臨み、神により強く
されて行く。弱さや罪を認めずに、隠す事こそ、主との関係を妨げ
てしまう。「わたしが洗わなければ。あなたはわたしと何の関係も
ない」と。汚い足を洗って頂こう。

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主が、ずっと足を洗い続けて下さるとは、何という恵みだろう。罪
を犯さないのでなく、日々犯す罪を、赦し続けて下さる。赦されて
赦されて生きて行ける。日ごとに足を洗っていただいて、ずっと主
と共に歩み続けられるとは、何と幸せだろう。