2017年06月17日(土)

「主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむ きの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか」ミカ6:7


私達は、自分が犯した罪が赦されるために、何か必要なのだろうか。
ミカは、どこまで行なえば受け入れてもらえるのかと言っている。
何をもって御前に出たらよいのか。一歳の子牛を献げたらよいのか。
いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油が必要なのか。いや、そ
れでも足らなくて、長子を献げなければならないのか。

罪意識が強くなる時に、何とかしようとするなら、子供を殺すまで
に行くと言っている。これが「邪悪な良心」だ。良心に邪悪なもの
があるのかと、不思議な気がするが、邪悪な良心とは、神を認めな
い心だ。神のして下さった事を認めない。

主の十字架により、罪と死が解決されている。すでに完了している。
罪の赦しは成就されている。それを認めないで、それだけでは足ら
ないので、何かをしなければと思う心だ。つまり、完全に赦されて
いる事を信じない。赦されるはずが無いと思っている。無代価の完
全な赦しを信じないので、行ないを付け加えて受け取ろうとする。

それなら子供をいけにえにするところにまで行き着く。そうでなく、
主の尊い犠牲により、無償で、すでにいっさいのかたが着けられて
いる。完全に無罪放免だ。このプレゼントを、恵みを、感謝して受
け取る事こそが、神の御心であり、喜ばれる事だ。その時、血の注
ぎを受け、邪悪な良心がきよめられ、素直な心にされ、真心から神
に近づける。

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罪赦されるために、生まれつきの性質は、何かの行ないをして認め
られようとする。根深い価値観がある。しかしすでに主の十字架で
無代価で罪が赦される。考えられないほどの驚くばかりの恵みだ。
今一度しっかり噛みしめて主に心からの感謝を献げよう。