2018年03月18日(日)

「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をも って私を悩まされたこととを知っています」詩篇119:75


 
問題や悩みは、誰しも好きではない。辛い痛い目には会いたくない。
できれば避けたいし、平穏な日々が、誰しもの願いだ。しかし御言
葉は、正反対のことを言う。「苦しみに会う前には、私はあや
まちを犯しました」と。苦しみがあったから、過ちから救い出され
て、今は、主の言葉を守ることができていると。

だから自分が、過ちを犯したのは、苦しまなかったからという事に
なる。つまり試練を通して、砕かれ、練られ、鍛えられていないか
らだと。そしてまた、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわ
せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と。苦しみに
会ったことが良かった。この世の価値観と、聖書の価値観は何と異
なる事だろう。

苦しみを通して、苦しみの中でしか学べない多くの訓練を受ける。
それは身について来る。苦しみの中で、主に拠り頼み、すがりつく
事を膚で知る。本気で、真剣に主に向かい、自分を振り返り、主の
御心を尋ね求める。自分の自我に満ちた姿を照らされる。あれもこ
れも自我のゆえ、エゴである事に気づかされる。

主を信じているつもりが、信じていない不信仰に気づかされ、教え
られる。苦しみに会う時は、主が私たちに道を教えるためであり、
その中で、御言葉の力、御言葉によって生きる事を知る時だ。

・・・・・・・・・・・・・
苦しみに会った事は幸せだったと言っている。苦しみに会った事で
過ちからも守られて行くと。自我が強く、自分の思い通りにしたい
のが生まれつきの性質だ。それが砕かれ矯正されて行く。その中で
しか聞けない御言葉があり、心に迫る。頭でなく真に主を知って行
ける。