2019年04月17日(水) 「ペテロは・・『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません』弟子たちはみなそう言った」マタイ26:35
「ペテロは・・『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません』弟子たちはみなそう言った」マタイ26:35
ペテロは、「全部の者があなたのゆえにつまずても、私は決してつ まずかない」と豪語した。「私は」どこまでも従う。たとい死ぬ事 になったとしても、「私は」あなたを知らないなどと決して言わな い。「私は」大丈夫との自負。ペテロは自分に自信があり、自信満 々であった。「自分は」他の者たちとは違う、そこに高ぶりが潜ん でいた。そして他の弟子たちも同じで、皆そう言った。 その時の彼らの気持ちではあった。しかしそのしばらく後、主が捕 えられた時「弟子たちはみな、イエスを見捨てて逃げてしまった」。 ペテロの裏切りは有名だが、弟子たちも皆逃げた。皆がつまずいて も自分だけは違うと断言していたペテロは、呪いをかけて誓ってま で否んだ。ペテロは自分の弱さを知らなかった。本当の姿が見えて いなかった。 私たちもペテロの姿は見ることができるが、自分の本当の姿は見え ていない。主はペテロの弱さをご存じで、取り扱われた。ペテロを 「岩」とされる過程だ。将来のリーダーとして見据えておられた。 苦しい試練の中で、「信仰がなくならないように、あなたのために 祈りました」との主の執り成しがあり、守られた。 私たちも取り扱われる。試練は苦しく、厳しいが、その中でこそ自 らの弱さを知る。順境の中では決して知る事のない弱さだ。砕かれ る。その中で主の愛は変わらず、手厚いケアがあり、そこで新たに 主を知る。そこで信仰が培われ、成長が与えられて行く。 ----------- 手痛い失敗によって本来の自分を知り、ますます主に頼れるように されることが試練に打ち勝つことではないか。失敗から目を背けず、 そこから与えられる信仰を受け取ろう。