2019年11月17日(日)

「悪魔は・・世界の国々を全部見せて・・『ですから、もしあなたが私 を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう』」ルカ4:7


主を信じる人々がキリスト者であり、聖書を読み、祈り、教会に行
く。だが一体自分は「何のために」信仰しているのだろう。少し立
ち止まって考えてみる事は有益だ。自分の願う何かを得るための手
段だろうか。この世の宗教にはよくある事だ。さい銭を投げ、ジャ
ラ〃と大鈴を鳴らし、パンパンと柏手を打ち、あれこれ盛り沢山の
願い事を告げる。

信仰が、もし何かを得るための手段なら、その欲しいものさえ手に
入るなら、他の手段でもよい事になる。この世では、望みが叶わな
いので他の宗教へと渡り歩く姿を普通に目にする。悪魔は「私を拝
むなら、この世の国々とその栄華を、何でも上げるよ」と巧妙な誘
惑をしかけた。

「あなたのその欲しいものを上げる、私を拝めば」と。喉から手が
出るほど欲しい物があれば、大きな誘惑となる。目的のものが欲し
いばかりで、誰がくれようと構わない。しかし主には、御父を礼拝
する事は手段でなく「目的」であった。

時に、問題解決の手段ための信仰だったりする。次々と襲い来る悩
みや困難の解決が欲しい。又より良い人生や人格者になる事、心の
満足や自己実現の手段とするなら、神が自分の思い通り、期待通り
に動いてくれないなら、遅かれ早かれ失望する。神の愛を疑い、神
から離れる事になる。

それらのものを神は御心なら与えて下さる。しかし肝心な事は、神
を神として信じ、神を崇め、神を礼拝し、神との交わりを目的とし
て生きるなら、どんな中でも平安と喜びを失う事は決してない。

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「主よ、ああして下さい、こうして下さい、主よ、あっちへ行って
下さい、こっちへ来て下さい」の祈りになりがちだ。主は御心なら
叶えて下さる。しかし「主をおのれの喜びとせよ。心の願いを叶え
て下さる」とあり、主ご自身を求めて行く事が大切だ。その時祈り
が叶えられて行く。