2020年01月18日(土) 「いばらの中に種を蒔かれるとは・・みことばを聞いてはいるが、世 の心づかいや富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、み ことばをふさぐ」マルコ4:19
「いばらの中に種を蒔かれるとは・・みことばを聞いてはいるが、世 の心づかいや富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、み ことばをふさぐ」マルコ4:19
主に出会うまでは、私達は見えるものによって生きて来た。この世 の見えるものに支配され、見えるもので心を満たして来た。見える ものがすべてであり、それしか無かったからだ。見えるものとは、 富や名声、人から来る外側のものだ。人から評価されたい、認めら れたい、賞賛されたい、人に良く思われたい、愛されたい。それが すべてなので、一心にその事を求めて生きて来た。 絶えず人にどう思われるかが不安でたまらず、恐れとなる。それが いばらの中に蒔かれた種の事で、この世の心づかいだ。なぜ私たち は、富や人からの評価で心を満たすのだろう。罪により、神との交 わりが遮断された結果、不安でたまらず、見えるものにしがみつく ようになった。 多くの人は富にしがみつく。富が一生を保障してくれ、富が夢を叶 えてくれ、幸せにしてくれると錯覚するからだ。又、人の愛にしが みつく。人の好意、賞賛を求め、それにより心を満たそうとする。 「世の心づかいや、富の惑わし・・がはいり込んで、みことばをふさ ぐので、実を結びません」と。 御言葉が根づかないのは、世の心づかいと富の惑わしが、御言葉を ふさいでしまうからだと言っている。富や、人から良く見られる事 により、安心を得ようとしていないだろうか。それは違っている。 安心が来るのは、主の愛からだ。何があっても、どんな時も変わら ずに愛して下さっている、神の不変の愛による。 いばらの価値観に気づく事から、大きな祝福が始まる。主は取り扱 い、それを除き、豊かな実を結ぶように助けて下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 主を知る前は、目に見えるところでしか、自分を量れないので、人 との比較、差異で量るしか方法が無かった。しかし救われた後も、 培われた根深い価値観が残っている。「わたしの目には高価で尊 い」と無条件で愛して下さっている主に、絶えず目を向けていよう。