2020年02月16日(日)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もな い喜びと思いなさい」ヤコブ1:2


聖書の「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使わ
れている。だが「試練」は神からであり、「誘惑」は悪魔からだ。
源が違う。神は、誰をも決して、罪に、悪に、誘惑される事はない。
「神は悪に誘惑されることのない方であり、だれを誘惑なさること
もありません」の通り、神から悪への誘惑は来ない。人は自分の欲
に引かれ、おびき寄せられて誘惑される。欲望による。

神からの「試練」は忍耐すべきものだ。その時、練られ、鍛えられ、
聖められ、必ず一段階成長して行く。試練は成長のためのもので、
試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思えとある。成長を遂
げた完全な者にされるためと。

反対に悪魔からの「誘惑」は、断固受け入れてはならない。拒否し
立ち向かうべきものだ。受け入れる時に罪を犯す。だから「主の祈
り」にあるように「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下
さい」と祈る事は大切だ。誘惑から守られるよう祈る必要がある。
悪魔の巧妙さは、順境の時に来る事だ。試練の最中では、むしろ真
剣に主を求め主に拠りすがる。

しかし平穏な時に人は油断する。状況が順調なので、主に頼る必要
が無い。物事はうまく行き、祈りを怠ってしまう。主に頼らずとも、
自分でやって行けると思ってしまう。まさしく油断であり、これは
高慢だ。誘惑の目的は、とにかく神から離すことだ。試練は、私た
ちを神に近づけ成長させてくれる。誘惑は拒絶し、試練は受け入れ
られるように祈ろう。

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試練は、なかなか喜べないが、しかし振り返ると、試練を通して主
に近づけられた事は事実だ。あの試練、この試練が無ければ、今の
自分は無い。試練は痛くて、辛いが、その中で祈る事が出来る。主
に心の内を何もかも告げて、交わろう。忍耐する力を与えて下さる。