2021年05月18日(火)

「神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3


生まれつきの盲人を見て、弟子たちが主に質問した。「彼が盲目で
あるのは、誰が罪を犯したからか、この人か、両親か」。主は「こ
の人でも、両親でもない」と答えられた。では、何のせいなのか。
それには答えられず、「神のわざが現れるため」と言われた。本人、
や親のせいでなく、どこかに原因が有る無しでなく、神の栄光が現
われるためであると。

古いこの世の価値観があり、何か苦しい事、負の事態が起こると、
バチが当たったと思う。因果応報だ。無意識に自分の素行と結びつ
けて、あの事、この事が悪かったのか。どの罪の結果なのか。そし
て「何で?」「何で?」と、心がおさまらず、犯人捜しをする。し
かし、そこに何の救いも解決もない。何も生まれない。

又、もし、仮りに本人が罪を犯したとしても、悔い改めるなら、主
の血潮のゆえに、全き赦しを受けることができる。そして親の罪の
責任を子に問われる事は無い。「父親が子供のために殺されてはな
らない。子供が父親のために殺されてはならない」と。その苦しみ
は、神の素晴らしいみわざを経験するためだ。どんなに救われる事
だろう。

その事が必ず益とされ祝福とされる。そこには絶望ではなく、希望
がある。今、目の前の試練は、あなたの祝福のためだ。「何を教え
て下さるためですか」と祈ろう。これらは、まず「主が盲人を見ら
れた」ことから始まった。主は、あなたを愛し、慈しみ、絶えず目
を注ぎ、目に留めていて下さる。じっと見つめて下さっている。

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どんなに苦しく辛い事があろうと、主がおられるので、どんな中で
も希望がある。何という救いだろう。そして苦しみに対して、犯人
捜しでなく、主の栄光が現われる事を信じるなら、どんなに平安と
期待に変わるだろう。何と嬉しい事だろう。