2023年10月18日(水) 「求めなさい。そうすれば与えられます・・だれであれ、求める者は 受け、搜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7
「求めなさい。そうすれば与えられます・・だれであれ、求める者は 受け、搜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7
パリサイ人は会堂や通りに立って祈った。それは「人に見られたく て」、いかに敬虔であり信仰深く、祈る者であるかを見せるためだ った。それなら、主ではなく、自分を崇めるためのものだ。「祈る 時には、偽善者たちのようであってはならない」人に聞かせるため に祈るのは、肉であり偽善だと。 自己顕示のために祈る事とは逆に、人前での祈りに尻込みする事が ある。人を意識し、どう評価されるかと恥ずかしい。人が気にな り、祈れない。これも同じく肉から出たものだ。又、異邦人のよう に同じ言葉を繰り返すなと。言葉数の勝負とばかりに、何時間も同 じ言葉を唱える。異教ではよくあるが、これは根本的に違い、私た ちと主は、取引き関係でなく、信頼関係で結ばれている。 主は祈る前に、私たちの必要をすべてご存じだと。それなら祈らな くてもよいのではなく、「だからこそ」祈れと。主は「求め」を喜 ばれ「求め」に、答えられるからだ。すでにご存じだからこそ、安 心して求める事ができる。「自分の奥まった部屋に入り、戸をしめ て」祈れと。 人ではなく、自分でもなく、主を意識して、主に向き合う祈りだ。 環境的に、一人が不可能な場合もある。ある人は通勤の満員電車に 座り、主を意識し祈ったと。公園でも、道を歩きながらでも、主に 心を向けて祈る事ができる。極みまで愛し慈しんで下さっている御 父が、受け止め答えて下さる。信頼し。御前に行こう。 --------------- 祈るときやかましい雑念がはれて自分の内側が照らされる。祈りに よって新しい祈りが生まれる。悪魔の企みの一つは祈らせないよう にすることだ。祈りの時間を求めよう。